昭和52年12月23日 朝の御理解
御理解 第4節
「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折りには、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」
「金光大神の言う事に叛かぬように、よく守って信心せよ」と言う事は、どう言う事であろう。いよいよ信心が地に着くというか、生活そのものが、なるほどお道の信者やな、信奉者だなと、自他ともにそれを実感でけれるおかげを頂いた時に、初めて金光大神の言う事に叛かぬ様に、いうならば生活がでけると言う事が、神様の喜び、金光大神の喜び、まあここでいうならば私の喜びと言う事になるのです。
お互いの信心生活の状態が、どのような風に、日々展開しておるかと。昨日久富繁雄さんがここでお届けをされますのに、その前の日でしょ帰りましたら、丁度一番下の孫が、今小学校一年生でしょうか、その夜あのおしっこを取り外しておる。でお母さんがやかましい言うて、布団ばその干しよるところだった。ほで「お前夕べはお前、取り外してじゃないかち」言うたら、その孫が言う事が、「夕べじっちゃんと一緒に御祈念せじゃったけんで。お願いせじゃったけんで」と言うたという、そのまあお届けがございました。「もう、祈念詞も拝詞も祈願詞も覚えとりますから、私と一緒に毎晩御祈念をします。したら取り外したそのわけを、夕べじっちゃんと一緒に御祈念をせじゃったから、お願いをせじゃったからち、言うた」と言う事。それだけのことですけれども、繁雄さんの御信心ぶりというものがそれこそ津々として、こちらに伝わってくる感じがするじゃないですか。ほんとに御祈念をしておる、家内中の者が後からついて御祈念をさして頂いておる。孫がもう、っちゃまが唱えよる唱え言葉なんか覚えてしもうとる。私はそういう話を聞く時に、も大変嬉しい有難いと思いますですね。
私は今日の御理解は、もうその一言を聞いて頂こうと思ったんです「もじっちゃまが言う事だん聞きゃせん、拝めちゅうたっちゃ拝まん家の孫だん」というのじゃなくて、自ずとそのじっちゃまの信心について、毎晩祈願詞拝詞を覚えて拝んでおると言う所にです、家族の家庭の中の信心が思われるです「金光大神の言われる事に叛かぬ様に、よく守って信心せよ」とそういう信心が、その一言二言教えを行じておるとか、言う事を聞いておるというんじゃなくて、生活全体の中に金光大神が滲み出てくる信心です。
じっちゃまが拝うだり拝まじゃったり、と言った様な事ではなくてです、毎晩これがお務め、いうなら行のように信心なら人の信心がでけておる。その信心に家内がついて行き、子供達がついて行き、孫達までも、なら信心についてくると。私はそれだと思うですね、金光様の御信心は。どんなに教えを全部覚えたとか、まあいうなら気のきいた事と言うでしょうかね。まあ金光教の信心が詳しくなって、お話がで蹴る様になったというてもです、生活全体にいうならばお商売ならお商売をさしていただいておる。
そのお商売の中に、金光大神がこう滲み出ておるような仕事、お商売家庭生活でありたいと思うですね。信心がいうならば家庭生活の中にしみ込んでおる。お仕事の中にしみ込んでおる。昨日は一日お話しをするのも、研修さしていただくのも、あの昨日読まして頂いた千恵子さんの手紙で、まあ終始する致しました。ここまでの心が進んでくるというか、開けてくると言う事、これは本気で信心を求め、信心を頂こうとする姿勢がなからなければ、もう次々というなら翻然としたものが開けてこない。
昨日、お初穂の整理を繁雄さん、なさっておられてから、お初穂袋を一つ持ってみえた。「これ先生あの、あなたが中を抜いとんなさるとですか」とこう言う。「いやあ、私はお初穂袋(笑)抜いたりそんなことせんが」ち。いや中にこう、さっき上野先生がお金を切りきなさった。それでこう中にまた包装する紙も開けた、その包み紙も開けた、ところがその紙だけしか入っとらん。で昨日ご兄弟から上野先生に少しまとまった金を、まあ御歳暮に送ってきた。
それでまあ先生、その中の半分を、まあ繁雄さんのところにお金を切りにいって、まあ御造営費にというわけでお供えをした。確かに切ってもやったお包み紙もやった、中の包む紙まで開けたのに入っておらんけん、なるほど私が中でも抜いたかと、こう思うちゃった。「そんなら久冨先生に聞いてみんの。」まあそんなことがちょいちょいありますです(笑)、皆さんが入れたつもりでおるとですよねやっぱ。もう御信者さん方には、私は、思いがそこにありますから申しません。
けれども相手が上野先生であったし、ほんの今だった今のことだったから、いやすぐ分かるだろうからと言うて、繁雄さんに言いなさって「そんなことなかばい」と言うて、まあ調べなさったところが、「ちゃんと本の間に、その入れんならんお初穂を挟んどった」とこう言う。「まあすまんことでした」と言うて、まあすぐおかげを頂いた。それからまたしばらくしましたら、また上野先生がここへお供えを、また別にして持ってまいりました。これが弟から送ってきたすべてである。
昨日研修の時にそのことを、まあ千恵子さんの手紙とそのことを、考えながら話したんですけれども。もうこの道一筋と決めた者が、どうしてお金がいるかと、余分なお金が。神様から与えられるだけでよい。いつどげなことになるならいけん、少しづつのお金でも貯めとかんならん。そう言う事が必要じゃないじゃないかと。ほんとに親先生が言われるように、繁おっちゃまからそう注意を受けて、もうその時翻然とほんとにそれどころじゃない、千恵子さんの今日の手紙から頂いたら、どうしてあのままお供えせじゃったじゃろうかと、悔やまれてならん。
自分の心の中に、まだもたもたしたものがある。それこそ私こそもう、この道一筋であり、神様から与えられたものだけでなからなければ、ほんとに有難いというものは味わえないことを分かっておりながら、実際の時になるとわざわざ金を(笑)切ってから、そして半分お供えしようとこうしておる。これはもう例えて言うなら、御信者の皆さんには、あんまりピンとこんかも分らない。もうほんとに信心一筋にと心を決めたら、神様に与えられたものだけでの、いうならば生き方生活。
神様から与えられたもの。そういういうならばもう純粋な信心ですね。私は信心にはそういう純粋さが要ると思うです。そういう意味でですね、その繁雄さんの信心にいつも触れる時に感じます事は、実にその純粋です。その純粋な信心が家庭の中に拡がっていかない筈がない。それこそ津々としてね、いうならばしみじみとこう水が、こう浸って行く様にですかね、しみ込んで行く様に、家の中に信心がしみ込んでいく。
私はあの今日はね、金光大神が言う事に叛かぬように、と言う事は一つ一つの事柄を捕らえるとじゃなくて、金光大神の信心を、金光教の信心をさしてもろうて、金光大神の教えがね、いつともなしにしみ込んで、自分だけではない、家庭の中にもそういうご信心の信心ぶりというものが、しみ込んで行く様な信心をしたい、頂きたい。信心に純粋なものが求められる。
昨日は西岡先生が六十三才の誕生日だというお届けがあった。それで誕生日にはいつもあの色紙を持って、何か一筆書いてくれと言うて持ってみえます。ちょうど西岡先生がそこへ色紙を持ってみえておる、ここに私は或る方のお取次ぎをさしていただいておった。そして「とにかく此方の信心はね、心一つですべてを創るという信心だから」と、この方に言うた時に、ここにおいさみがついて、そのおいさみがね、スーッとこう西岡先生のところに流れるような感じのおいさみでした。
ああもうほんとにあの、ほんとに(笑)こう音が流れるというですね、それが西岡先生のところにこう流れるという感じでした。だから私はもうそれこそここで私が「心一つですべてを創る」もうそれこそ先生自身、毎日ああして書かれるから、何べん書かれるか分からないでしょうね。「心一つですべてを創る。」だから私はその色紙に、やっぱりそのことを「心一つですべてを創る」、そしてもうほんとに何十回書いたか、頂いたか分からない、その「心一つですべてを創る」と言う言を。
今日更に改めて私の心の中に頂いたという実感があるという意味のお届けをされました。どんなに繰り返し繰り返し頂いておっても、自分のそれが血肉になっておらなければだめなんです。さあなら言うてみなさいと言うて、なら教えのすべてをここでやって、その【 】の中に話すと言った様な言を覚えるというのじゃなくてです。もう身体にしみ込んだものね、いうならば書きもおりゃ、毎日聞いておるけれども、初めてその「心一つですべてを創る」という、その御教えがね。
こう初めて何故かしみ込んだという感じです。この御教えが一つほんとにしみ込んだら、どう言う事になるでしょうか。もうそれ一つでいうならば金光様のご信心ぶりというか、素晴らしいとか。昨日研修の時に先生方にも、まあ話したことでしたけれども、いうならば表に出るところよりも陰ね、目に見えるところよりも、目に見えないところを大切にする。そういう目に見えないところを大切にしておられる時に、それがチラッと誰かの眼に映る、時にその人は、「いやー素晴らしいな信心とは。まぁあの先生はほんとに素晴らしい」と言う事にもなってくる。
けれどもそれと反対のことになったらどう言う事になるか。或る教会におかげを頂いておられた人が、そこの先生は非常に遊び好きで、いつもお広前を空けておられる。だからその代わりの先生が、いつも一生懸命ご結界に奉仕をしておられる。ですからもう頼りになるのはその先生ばっかりであった。ところがある時に、当時まだあの百円でしたかね、百万円の宝くじが買えた時分。「○○さん済まんばってんが、宝くじ一枚買うちくれんの」と言うて、ある時頼まれた。
もうそれっきり、その先生がもう嫌になって、もう参るごとなくなったとこう言う。その前後して、ここへもう何十年参っておられます。たった百円の宝くじを、買うてくれと頼んだことだけが、そんな、もう神様の、いうならばおかげでと、決め込んだ先生が、百万円の宝くじを買おうとされた。なるほどそれが一つの、夢のようなものですから、もし当たったら、どっか教会にでも布教にでも、出ろうと言った様な思いが、あんなさったのかもしれません。
心易すまぎれに、いうならばその百円の宝くじを頼んだ、途端にもうその先生が嫌になった。じゃあなくて、それとは反対のことがです、目に見えるところより、目に見えないところをです、大切にしておる、それを見せようじゃないけれどもです、それがその人から感じられる時に、その人は神様からも信用を受ける、人からも、ま、尊敬されることになってくると思うです。それはね、もう純粋に信心が血肉になって行きよらないとです、そういう迷いすらが起こってくるのです。
一つ、お互い、ほんとに純粋度の高い信心をしたい。それが、自分の心にしみ込むだけではなくて、家庭中にしみ込んでいくような素を作らしていただきたい。そういう信心を、金光大神の言うことにそむかぬようにし、という信心ではなかろうかと思います。自分の信心、自分の家族の信心、ただおかげを受けるからといったんじゃなくて、もうどっから見てもお道の信心ぶりというものが、いうならばしみ込んで、だからちょっとした、なら言うことすることにでもです。
何とも言えん信心の味わいが、こう出てくるような、おかげを頂きたいですね。金光大神が喜ばれる。天地の親神様が喜ばれる。それは例えば私はここでは思うです。私が喜べれる、それは表面のことでじゃなくてです、又聞きに聞いたり、または陰のことを見たりする時にです、私が喜べれるような信心は、そのまま金光大神が喜んで下さる信心だという風に、私は思うとります。そこで私が言うておること思うておること、行うておることの中に「こればもし先生が聞きなはったなら、嫌な顔しなさるじゃろう」、「こういう在り方になっておる時なら。
先生も喜んで下さるだろう」と、言う様なね、よく言われます。「こういう時、先生ならどうなさるだろうか」と、と言う様な事を言われる方がありますね。だからそういう、こういう時ならというだけでなくて、いつもがです、金光大神に喜んで頂く様な、その心がけというものが、精進されていくうちにいつの間にか、いうならば尽きることのない津々とした味わいが出てくるのじゃないかと思います。いうならば、信心の味わい、いうならば、神身一体、そういう信心を身につけて行きたいですね、
どうぞ。